昭和50年(月日不明)(3月23日前後) テープ№50-030A面-2
中村良一
一日が、善導寺の霊祭でしたが、星野から見えとりませんでしたから、勝彦と、あの、幹三郎と行っとりましたから、勝彦は、装束を持って行っております。幹三郎は、ただ、ご参拝でしたから。来とらんから、祭員が一人足らんから、一緒にという事だったんでしょう。あの、あちらの、白衣から、装束全部借りてから、幹三郎と、兄弟二人で、久富先生と、そすと、若先生と四人でした。それで、もう、あの、祓い詞から、一切合財を、勝彦と幹三郎でする訳ですけれども。まぁ本当に、私は、それを拝ませて頂きながら、子供達が、あぁして、お役に立っておるとを見てから、非常に、何時もにない、その、感動を感じたんですけれどもね。あの、確かに、あの、今朝からもいう様に、信心は感動です。もう、感動なしの信心なんて、もう本当に、おおよそ意味がないです。ですからね、いかにして、その、感動を、生き生きとしたものを頂くかという工夫を、何時もしなければならない。
もう、夕べも、私は、この御霊様の事をする前に、みんなに話したことでしたけれども。最近、合楽で言われる、心行という事にね。もう徹底、取り組まなければいけないと。心行というのは、もう、例えば、電気を消す事でも、水、一掬いの水でも、大事にするという事を、何時も心がけて、工夫すること。というて、今度は、使う時には、もうどれだけでも、どんどん使う事が、神様、お喜びでありね。その時に、あの、神様が、どうある事がお喜び頂く事かという事を、思うたり、工夫することが心行なんです。もうあの、私が、朝、枕元に水を置いとりますから、水が、それだけお粗末にならんように、口をゆすぐのだけに、私が、それを持って行くんですよ。もう、水道が、じゃーっと出りゃ、何だけれども。そう思うただけで、そこに、おいさみが付きますからね。かというて、ほんなら、お水を、ほんなら、今度は、必要な時には、もう、沢山、使わにゃん時には使うて、本当に、お水のおかげで有難いと言や、そこに、また神様の喜びを頂くようにね。もうその、心行とはね。そういう事を考えることなんですよ。ですから、心行は、ずーっと出来る筈です。例えば、スリッパ一つ揃えるでも、次、這入ってきた人達が気持ちが良いようにという思いを、そこに置く事は、もう心行です。ですからね。もう、今まで、あんまり、心行という事の、目の粗かった事に、改めて、最近、気づかせて頂いておるんですけれどもね。そういう工夫をしておる時です。何時も、心に、生き生きとした、有難いものを感じれれるのはね。その、二十日の霊祭の時も、墓前祭を、久富先生と、子供達と三人で仕えておりましたが。今度、あの、上の方の、高い方でありましたもん。それで、私ども、玉串上げるとに、一段上がってね、足袋裸足になって、上がって、もう、ほんの、奥城の前に、額口が、そこに付く様な所で、玉串を上げるんですけれどもね。こちらの方から、下の方で、玉串あげて、こちらから、こうやって拝むよりもね、やっぱり、その、額口が、そこに付くごたるところで、玉串あげて、お礼をさせて頂くと、感動が違うですよ。やはり。
もう、確かにね、夕べも、その話が、おら、本当に、この、たまがった。福岡の教会に行ったら、天地書付ば、あの、ちょうど、金具のところに、ぶら下げてあるそうですもんね。そらあんた、この頃、久留米に行ったら、久留米もそげんじゃったですもん。ほんなら、小倉も、そげんじゃろうと。だから、やっぱ、ずっとその、真似せにゃいかんという所で、しよりなはっとじゃろばってん。まぁ無感覚も、無感覚、ほんに、馬鹿んごたるねと言うてね。天地書付という事は、大体、あれは、教祖様は、見良いところにと仰っておられたので、柱にでも張って、見良いところにと言うて、あの、皆さんに渡されたんですね。だから、拝む対象じゃないです。どこまでも、教えであって、座右の銘です、いうならば、ね。信心させて頂く者の。それをその、まぁ拝むという事は、どんなに考えたって、可笑しい事だし。それは、ともかくとして、その、金具の前に、天地書付のあれを、ぶら下げとくてんなんてんち。しかし、ほんなら、久留米も、ほんなら、福岡もそげんなら、違わん、小倉もそうじゃろうと言うて、まぁ、言うた事でしたけれどもね。
その、なぜその、感覚的にでも、例えば、桜井先生と言うね、あちらの方から見えた、大変、大きな教会の先生ですが。ここへ見えた時に、それを、お書物に書いておられるのに、合楽教会に行ってからの、第一、入ってからの、大理石の門柱に、あの、肝を抜かれた。大きな手洗い鉢、大きな襖と言い、そして、進むにつれて、とにかく、神徳溢れるばかりのお広前だという事を書いてるんです。ですから、その、それは、そういうね、例えば、神徳溢れるばかりのものを、このお広前で感ずるという事が、すでにもう、おかげでしょう。だから、演出してからでも、工夫が要るという事です。皆さんの、御神前なら、御神前でもです。やはり、お掃除も綺麗にする。お供えも、ちゃんとさせて貰う。もう、とにかく、豆腐一丁買うたっちゃ、お供えしなければ頂かん。
この頃、宮崎から来よった、甲斐さんという人はね。そう言うております。ですから、もう、何時も、御神前は、うず高く、お供えをさして頂く、しておると言うておりますがね。それの方がね、有難いです、やはり。それで、お神様は、お礼をさせて頂くでも、やはり、遠くから拝む。それは、天地の親神様は、神に会いたいと思えば、庭の口に出てみろ、空が神、下が神と仰るけれどもね。けれども、やはり、ほんなら、ここの、お社があって、お社で拝むなり。お社の中に、こう、閉じ込めといてから、もう、神様が、出きりなさらんごたる神様じゃないとですからね。そこに、集中する、祈りを集中する。例えば、ご結界に、お徳の高い先生が据わるのは、ちょうど、あの、レンズの様なものだ。大きなレンズで、太陽の熱を、ここに集めて、そして、氏子の苦労を焼き切ってしもうてやる。レンズであの、黒く、墨で書いたのをすると、すぐ燃えて来るでしょう。苦労を焼き切る働きがある。ね。そこから、思うたっちゃです、ね。いかに、取次の働きによって、天地の、遍満してござる神様じゃろうけれども。それが、ここに、集中するという事が、言えれるでしょうが。例えば、ほんなら、祈念を凝らすなら、お社の中に、その、集中するということなんですから。だから、それと反対の人が据わると、あの、引っ込んだレンズと同じ事ですから、かえって、神様のおかげが、ここまで来とっても、それを散漫にしてしまうのですね。そういう、理から言うても、今の金光教の奉祭式は、もう本当に、可笑しいですよ。そして、ほんなら、拝む時に。あっちは、あげんとこに、天地書付ども、ぶら下げちゃると思いながら、おごだっちゃ、いっちょん、有難うなかです。私は、この頃、久留米に行って、それを思いました。ちょうど、あそこにぶら下げてあった、金具のところに。ですから、結局、私は、信心とは、やはり、何時も、この感動だと。その感動を、また、育てることだ。ほんなら、感動することのために、心行も必要。ほんなら、演出も、また、しなけりゃならない。感覚的にも、段々、研かれて行かなきゃならない。そして、拝むならば、出来るだけ、神様の前に、ゆう、引っ付くようにして、拝んだが、感動が強いという訳ですよね。